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“障害の「個人モデル」と「社会モデル」に関する私の見解”


19年間という、あまり長くはないこれまでの人生の中で、私が出会った「障害者」を自称する方はすべて、「障害を持ちながらもこれこれこうの偉業を達成したので講演しています」という方ばかりであった。学生とはこの類の講演を聴いて啓発されるべき存在らしく、私が生活してきた歴々の学校には、季節の変わり目になると様々な方がおいでになり、それぞれが持ち時間目一杯使って啓発なされるので、私は「障害者」と聞くとまずは身を固くして構えてしまう。
今回の「個人モデル」と「社会モデル」という話題を読み、真っ先に私が思ったのは、「社会モデルを社会のすべてにおいて採用したなら、障害者講演は様変わりしそうだ」である。

「個人モデル」とは、障害は個人が有しているものであるとする考え方である。個人の持っている肉体的精神的欠損によって、通常の生活範囲で発揮できるはずの個人能力が欠如し、結果、社会の中において「障害」という個人の不利益が生じる、というものだ。
これまでの障害についての社会の常識は、この個人モデルによって成り立ってきたそうだ。これは医者が、通常の肉体的精神的機能を持ち合わせていない人間を診断して、他者の援助を必要とする障害者ということにしたことが社会全体の認識となったらしい。
ここでつまり、障害者はサービスを必要とし、”善意の”サービスに頼らざるを得なくなるのだから、その反対に障害者も、社会に対しいつも善人であるべきとされてしまう。若者を啓発する講演が頻発する一因はここにあると思う。

それに対し社会モデルは、障害は社会システムや他の人々の意識によって形作られるとする考え方である。これは、個人の肉体的精神的欠損について、社会が充分に考慮しないことにより、「障害」という個人の不利益が生じる、というものらしい。
本人が望む生活を望むとおり送ることができないのは、社会システムや他の人々の認識のせいであり、本人の持っている身体的精神的機能のせいではない。例えば、障害のために就職ができないのは、障害者を雇わないことによって利益効率が上がってしまう社会システムに問題があるらしいのである。
こちらでは、障害者は善人かというと、必ずしもそうではない。現代の世間一般人と、人間として同質なのだから、同程度に善人であるべきとされるはずである。むしろ社会に虐げられている立場ということで、一昔前の倫理観なら一揆を起こして悪人になってもいいところだ。

現状の個人モデルでの考え方が社会モデルへと転換されれば、障害を克服した自美談を語る講演者は、「古い考え方に捉われ、的外れな発言をする哀れな人々」となる。そもそも社会的に相応の位置にあるのだからもはや障害者ではない。
そしてそういった個人的美談を語る人々に代わって現れるのは、自分に対する社会の非情さを嘆き、壇上から政治的要求を行なう、より攻撃的な障害者集団だと思う。個人モデルでの社会では「障害があるから」登壇できなかった人が、「登壇できない社会はおかしい」と発言できる社会を作ることが可能なのが、社会モデルという考え方なのだと思う。
同時に、社会モデルでの社会は、障害者は皆良い人である必要も無く、善悪よりも人間らしさが評価基準になり得るように思う。なぜなら社会モデルでの社会においては、障害を克服する為には社会にそれを求めねばならないのだから、サービスを受けるために媚び諂う必要は無く、自分はどうして生きていきたいのかを明確に見据えていることが大切だからだ。
今まで障害者と呼ばれていた人たちがより動的な存在になることで、均質なサービスを受け続けるのとは違う、障害者の人たちにとって今までよりよほど面白い社会になのではないかと思う。少なくとも私は面白いと思う。そういった意味で、「個人モデル」から「社会モデル」への転換は、すばらしく意義のあることである、というのが、私の見解である。
by kurorai | 2007-06-07 01:04
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